競技かるたの誕生と変遷

小倉百人一首の札が競技用へと
移り変わってゆく過程をご紹介します

小倉百人一首かるた札の歴史

かるた札の歴史

大名や貴族などにのみ楽しまれていたかるた遊びでしたが、木版印刷によるかるた札の大量生産が可能になったことで、江戸時代には庶民の娯楽として多くの人に親しまれるようになりました。

 

「小倉百人一首かるた」は、もともとは短歌1首が「上の句札」と「下の句札」に分かれていました。しかし歌を覚えていない人でも楽しめるように、江戸末期から明治期にかけて上の句札は歌1首すべてが書かれた「読み札」へと変化しました。

競技かるた札の出現

標準かるた

1904[明治37]年、ジャーナリストとして活躍していた黒岩涙香は、自ら主体となって「第1回東京かるた会競技会」を開催し、これをきっかけとして現行に近い競技ルールが制定されました 。黒岩は同時に、標準かるたも制定しました。従来の変体仮名*かるたではなく、平仮名の活字かるたとしたのです。

*小学校令(1900[明治33]年)により、平仮名の書体は現在の形に定められました。これと異なる字体を変体仮名と呼びます。

競技かるたは1対1で対戦し、取り札(下の句が書かれている札)を取り合います。
読手が1人いれば、対戦が何組あっても試合を同時にすることが可能であるので、読み札と取り札は別売りになっています。

JP
EN
PageTop