5月27日は「百人一首の日」。藤原定家の日記『明月記』の嘉禎元(1235)年のこの日の記事に、息子為家の舅・宇都宮蓮生から、天智天皇から家隆・雅経に至る歌人の歌各一首を色紙に染筆することを頼まれたとある。これがきっかけで今日の「小倉百人一首」があるのはみなさんもご存知の通り。
『明月記』は漢文体であることに加え、定家自筆の文字となると、見馴れぬ者にとっては何が書かれているのかよくわからない。その中で確実に理解できる情報が日々の天気だ。日付の下に「天○○」などとあり、その後改行があって記事に入る。この前後を見ると、25日は朝少し雨が降ってのち晴れ、26日は晴れ、27日も晴れ、28日は快晴とある。梅雨明けあたりといったところか。この時期を和歌ではどう詠んでいたのかを、百人一首に登場する歌人の作品から見る。
「由良のとを」の曾禰好忠に、1年360日をそれぞれ和歌にした「毎月集」と呼ばれる360首の歌群がある。その5月27日に相当するのは「焦がるれど煙も立たず夏の日は夜ぞ蛍は燃えまさりける(思い焦がれるけれど煙は立ちません、夏の日は。夜に蛍が光るように、私の「思ひ」の火も夜こそ燃えまさるのだよ)と、蛍に恋の思いをよそえたもの。
「恨みわび」の相模は30歳の時に相模守の夫・大江公資に随行し任地に行くも夫婦関係が行き詰まり、伊豆の走湯権現に百首歌を奉納する。すると権現からの返歌があり、さらに相模が歌を返す。この三組の百首歌を「走湯百首」という。構成は季節の歌が各15首でさまざまな思いを述べたものが40首。このうち五月下旬に相当する三組を紹介する。
まず「涙にも消えぬ思ひの身をつめば沢の蛍もあはれなりけり(涙にも消えぬ思いの火を燃やし続ける我が身に比べると、火をともしながら飛ぶ沢の蛍もしみじみと思われます)」という相模に、権現が「世の中を照らすばかりに思ひなせ何か蛍をあはれとは見し(夜、世の中を照らす程度のものと思いなさい。 どうしてその程度の蛍をしみじみ思ったのですか)」となだめると、相模は「ほどもなき身のみ焦がるる蛍をば人知れずこそ思ひあはすれ(小さな身を思いの火で焦がしている蛍を、人知れず我が身と思い合わせているのです)」と反論する。都を離れた地で物思いに苦しむ孤独な姿が浮かび上がる。
相模に先んじて活躍した和泉式部の名唱「物思へば沢の蛍の我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る(物思いに沈んでいると沢を飛びゆく蛍も我が身からさまよい出た魂かと見ることだ)」を思い出す。平安時代中期から後期にかけて、和歌の世界での五月下旬とは、物思いの情念を蛍に見る日々であったようだ。
それが、後鳥羽院が新古今集に先立って有力歌人に百首歌を求めた「正治初度百首」では趣きが変わる。ここには百人一首に入る歌人が9人出詠している。五月下旬の素材を見ると、郭公(後鳥羽院)、涼風(式子内親王、良経、慈円、俊成)、夏草(定家、家隆)、常夏(寂蓮、二条院讃岐)と広がり、涼風に注目した歌人の多さが目を引く。
百人一首の夏の歌は四首。夏の訪れをスケールの大きな景色とともにうたい上げる持統天皇の「春過ぎて」、短夜をユーモラスにとらえた清原深養父の「夏の夜は」、夜明けを詠んだ後徳大寺左大臣こと藤原実定の「ほととぎす」、夏の最後の日の水無月祓えを材とした家隆の「風そよぐ」である。「春過ぎて」からは、天の香具山に干した衣が風にたなびく光景を思い浮かべる。深養父や実定の歌からは早朝のまだ涼しい空気を感じる。家隆のうたうのはもう秋風だ。少ない歌数ながら、こうした時代の雰囲気と重なっているようにも見えてくる。
暁星中学高等学校教諭/文教大学文学部非常勤講師/和歌文学会委員
『大辞林』(三省堂)第3版の執筆・校閲を担当