公定かるたの登場
1925[大正14]年、黒岩涙香(大正9年死去)の息子である黒岩日出雄により大改訂が行われ、『標準改訂公定かるた』(札裏に都鳥)が東京圖案印刷より発売されました。
※「公定かるた札附属説明書」の内容はこちらからご覧になれます
その頃、雑誌の付録にかるた札がつく等、百人一首かるた札は広く一般家庭にも浸透していました*。また、競技かるた用の札以外に、様々なかるた屋から「練習用かるた札」等と称した札が製造・販売されていました。かるた屋にはそれぞれ拠り所とする「定本」があるので、競技かるた用札とは表記が異なっています。
*雑誌『少女の友』昭和9年新年号の発行部数の記録はないが、当時のライバル雑誌である『少女倶楽部』の記録から推測するに、おそらく30万部程であったと考えられる。
戦時下での競技かるた
昭和16年、「百人一首で描かれている天皇・皇族を弄ぶのは、不敬である」という理由から、皇族の歌仙絵を御簾で隠した、いわゆる『御簾隠れかるた』などが推奨されたといわれています。
さらに昭和17年以降には、恋愛の歌が多い事から、競技自体自粛となりました。
その代わりに、国が推奨していた『愛国百人一首』を使用して、かろうじて競技を続けていました。
憲兵隊に小倉百人一首愛好団体が各地にあることを知られ、「国家非常時、国民総動員の今日、恋の歌を弄ぶとは何事ぞ」と強い咎めを受けた。本協会では止むなく、鳩首知恵を絞ったあげく、「愛国百人一首」(日本文學報國會選定・情報局認定)を持参して、おそるおそる提出したところ、たいへん喜ばれ、大々的に普及せよとの言葉であった。
それに意を強くし、全国に指令を飛ばし、第1回愛国百人一首大会を橿原神宮で開催した。しかし、その後、会場は焼かれ、選手も霧散し、しばらくかるたを顧みるものもなかった。
~伊藤秀文著 『かるたの歴史と遊び方』より~
競技かるたの復活
第二次世界大戦後、各地でかるた会の活動が再開され始めました。
いつの頃からか、競技かるたの札は、関東のかるた屋(精文館)、関西のかるた屋(大石天狗堂)の2軒で、製造されるようになりました。 精文館製造札は、改訂された『公定かるた』と同じ表記を踏襲していましたが、大石天狗堂製造札は、西日本かるた連盟理事長である西田直次郎氏らの作成した「定本」に則った表記で製造されるようになりました。
昭和21年国語審議会の告示を受け、現代仮名遣い表記の『新制かるた』が考案され東京図案紙工品株式会社等より発行されました。その後紆余曲折ありましたが、従来の歴史的仮名遣い表記の百人一首かるた札による競技に戻りました。
精文館(箱表面・札裏ともに紅葉柄、箱側面は千鳥柄)が廃業し、河出興産(箱は精文館と同じ仕様、札裏は無地)に引き継がれました。河出興産の製造札は、おそらく自社定本の影響からか、公定かるたとは異なる表記が随所に見られます。(例:「山おろしよ」)
河出興産も廃業となった時、多くのかるた競技者からの要望に応えるため、大石天狗堂は、競技かるた用の札を従来の公定かるた表記に準じ製造・販売するようになりました。それ以前や、競技かるた用途以外に製造されている札は定本に沿った表記の札となっているため、異なる表記の札もあります。(例:「いづこ」「いづく」)