いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
現代語訳
かつての奈良の都にあった八重桜が今日は九重、宮中で一段と咲き誇っていますよ。
所載歌集
詞花集 春 29

デビュー戦

奈良公園(写真提供:一般財団法人奈良県ビジターズビューロー)

奈良から宮中へ例年通り八重桜の献上があった。このときの帝は一条天皇で、中宮彰子も一緒にいた。さらに彰子の父・藤原道長も同席していた。桜の受け取りは中宮に仕える女房の役目で、前年は紫式部がつとめた。その彼女が「今年の取り次ぎは新参の方に」といって伊勢大輔にゆずった。すると道長が「ただ受け取るだけではだめだ。歌を詠みなさい」と注文をつける。そこですかさず詠んだのがこの歌。

「の」を連ねて「八重桜」でいったんとめる。かつての都で誇らしく咲いていた八重桜に思いを馳せる仕掛けだ。ここで一呼吸置き、後半への期待を高める。すると一言「けふ」でその思いを今のこの場に引き込む。そして「八重」にひとつ加えた「九重」とうたうことで、桜が一段と咲き誇っているだけでなく、宮中のこの場も「いにしへ」にも増してはなやかで輝いているとほめたたえる。目の前の桜にとどまらず、宮廷そのものを称賛した、道長全盛期を象徴するかのような一首となった。

伊勢大輔は49大中臣能宣の孫。有名歌人の家系に連なる大輔に道長が腕試しをしてみたとか。この頃、56和泉式部59赤染衛門も彰子のもとに出入りしていた。一芸に秀でた女房が集まるのだ。このとき中宮を始め一同の感嘆で宮中が揺れ動いたようだと伝えられる。歌人として、また才媛としての評価が定着した瞬間だ。

©一般社団法人 全日本かるた協会
「吉崎御坊跡の八重桜」(福井県あわら市) かつて蓮如上人が庶民に浄土真宗を広める拠点とした御坊があったところです。例年の 見ごろは4月の中旬から下旬です。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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