滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
現代語訳
この滝の音は絶えてから長い時が経ったけれども、その名声は流れ伝わり今でもやはり聞こえているよ。
所載歌集
拾遺集 雑上 1035

行成といっしょに

嵯峨野の大覚寺の滝殿の跡を見ての一首。「滝の音は」と、聞こえないはずの「音」を言い、滝、絶え、とタ音を重ねてリズムをつけ、なり、名、流れ、なほ、とナ音を連続してなだらかなイメージを付す。加えて、名声が今に伝わることを「滝」からの連想で「流れて」とすることで、リズムの変化で分断されかねない前半と後半を水のイメージで統一する。往時のまま滝が音を立てて流れ続けているかのようだ。想像力に強く訴える、それでいて心配りの行き届いた歌である。

62「夜をこめて」で登場した藤原行成の日記『権記(ごんき)』にこの日の詳しい記録がある。999年9月12日、左大臣・道長が紅葉を求めて嵯峨野に出向いた。行成や公任も同行し、大勢での散策だったようだ。大覚寺を経て小倉山のふもとを流れる大堰(おおい)川に行き和歌を作り、夜、都に戻ってから歌を披露した。今は、大覚寺の東に広がる大沢池のほとりに「名古曽(なこそ)滝跡」という石碑がある。付近には湧水が流れ、この日の一行と同じ感慨を味わうことができる。

藤原公任は当代きっての文化人で、道長が大堰川で紅葉狩りをした時に、詩・歌・管絃(音楽)のどの舟に乗るのかと聞いた『大鏡』の伝える話は有名。どの才も抜きん出ていた。『枕草子』や『紫式部日記』にも名が見え、逸話には事欠かない。息子に64定頼がいる。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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