来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
現代語訳
来ない人を待っています、松帆の浦の夕凪に焼く藻塩のように、わが身も恋い焦がされながら。
所載歌集
新勅撰集 恋三 849

自分の歌を選ぶ

「松帆の浦」は淡路島の北端。万葉集の長歌に「淡路島松帆の浦に朝なぎに玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ海人娘子(あまをとめ)ありとは聞けど」と、朝には玉藻を刈り夕凪のときには藻塩を焼く漁師の娘がいると噂には聞くが、見に行く手だてがなく恋しく思う、とうたわれた。聖武天皇の明石行幸に随行した万葉歌人・笠金村のもの。一行が淡路へ渡ることはなかった。その後この地に注目した歌は残っていない。そこへ定家が満を持してうたう。立ち位置を淡路に移し、松帆に「待つ」を掛けて女の歌へと変貌させる。出典は100順徳院主催の内裏歌合という晴の場。55歳のときであった。来ぬ人を待つ、その松帆の浦はもう夕暮れ時で、男の訪れが気にかかる時間帯に入る。塩をとるために焼かれた藻が焦げるように、わが身も焦がしながら待ち続けていますよ、という。二句から四句が「こがれ」を導く序詞となり、静かな夕凪の中をのぼる煙が女のおさえきれぬ気持ちを象徴する。待つことしかできぬ女の胸に秘めた思いやいらだち、せつなさをしみじみと詠んだ一首。

 

この頃、定家は自らの歌作をふり返り、自作の中から高く評価したものを歌合形式で百番二百首を選び、この歌も加えている。百人一首の後、単独で編纂した9番目の勅撰集『新勅撰和歌集』にも収める。定家晩年の自信作であった。

一覧に戻る
一覧に戻る