ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
現代語訳
宮中の古い軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、やはりしのび尽くせぬ昔であったよ。
所載歌集
続後撰集 雑下 1205

昔を思うよすが

1216年、20歳の時の述懐歌。宮中をいう「ももしき」は本来「大宮」にかかる枕詞で、万葉集では「ももしきの大宮人」と詠まれるなど多くの用例が残る。また「しのぶ草」から昔をしのぶという発想は平安和歌の王道。このふたつだけでもおのずと懐旧の情がわき起こるというもの。平安以前からの時間をたっぷりと取り入れた上で「なほあまりある」と、しのびきれずにいる昔を思う。思い出すことが次から次へとわき起こり、果てのない時間の流れに身をゆだねているようだ。院は若くして和漢の学に通じ、家集『順徳院御集(紫禁和歌草とも)』には十五歳の作から見える。宮中の故実をまとめた『禁秘抄』や歌論の集大成ともいうべき『八雲御抄(やくもみしょう)』といった著作の準備も早くから始めていたという。朝廷の権威や機能が次第に失われていく現実を見る中で、平安の「昔」に思いを馳せる時間も少なくなかったのであろう。いにしえへの追想が現在への感慨を呼び起こし、哀愁を帯びた歌になっている。王朝和歌の歴史を具体的に歌で再現した感があり、百人一首の最後にふさわしい。

 

後鳥羽院の皇子である院は兄・土御門院の譲位を受け14歳で即位し、承久の乱の起こる一月前に25歳で譲位。後鳥羽院とともに乱に臨み敗北する。配流先の佐渡で亡くなったときは46歳であった。

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