思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり 思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり
現代語訳
恋の思いにこらえきれずにいて、それでも命はあるというのに、辛さに耐え切れなかったのは涙であったよ。
所載歌集
千載集 恋三 818

遅咲きの歌人

相手のつれなさを嘆いた歌。このまま相手の態度が変わらないでいると、こらえきれなくなるのは命そのものであるとばかり思っていた。それはそれでよかろう。そこまで覚悟を決めた。が、生きながらえている。その(あかし)として涙がこぼれ落ちるではないか。そのとき初めて、こらえきれなかったのは命ではなく涙であったのだと気づき、感慨にひたる。「なりけり」には涙が流れたことだけでなく、つれない相手になお思いが残っていることに気づかされたおどろきもこめられている。命と涙を対比することで、涙を流す心情に関心が引き寄せられる。

道因が歌人としてブレイクしたのは70代になってから。84清輔の関わる歌合への参加や85俊恵法師との交流が伝わる。80歳ごろ出家する。

住吉大社

歌合で自らの歌を負けとした清輔のもとに近寄り涙を流して恨みごとを言った話や、90を過ぎて耳が遠くなったので、講師が読み上げる歌をそばに寄って聞いた話、また没後83俊成の夢に出て千載集に18首採ってくれたことを泣いて喜ぶと俊成が感じ入ってもう2首追加した話など、歌道に執心する話を鴨長明が『無名抄(むみょうしょう)』という歌論書に書き留める。長明も俊成や定家の時代を生きたので直接聞いたのであろう。いずれも生々しい話だ。千載集には清輔と同じく20首入る。90歳で歌合に出詠した記録が残る。遅咲きの歌人であった。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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