- 現代語訳
- 逢って一緒に過ごした後の心に比べたら、昔は物思いなどしていなかったのだなあ。
- 所載歌集
- 拾遺集 恋二 710三十六歌仙
後朝の歌とは
一夜をともに過ごして迎えた朝を後朝という。夜には袖を重ねて敷いた衣をそれぞれが着て別れることによる。男は別れた後で歌を贈るのが習わしであった。逢瀬以前の「昔」は幾度も文を贈り、相手の反応を気にし、心は千々に乱れた。そんな物思いも、逢瀬の後から見れば物思いのうちに入らないという。次に逢える夕方までが待ち遠しかったり、相手がどう思っているか不安になったり、この恋がどんなふうに人びとの間で語られるのか気になったり、など、それまでは想像だにしなかった心の揺れに襲われる。始まったばかりの恋を大事にしようと思うがゆえの新たな物思いを受け止め、たった一夜でそれまでが「昔」になってしまった心の変化をよく見つめた一首。昔との対比で今の思いが鮮やかに伝わる。出典の拾遺集・恋二は「題しらず」とある。その母体となった55藤原公任撰の『拾遺抄』は詞書に後朝の歌と明記する。『古今和歌六帖』にも後朝の歌を集めたうちの一首として伝わる。ところが『敦忠集』では相手の父親が二人の関係を知り反対したときの歌とする。勅撰集などの優美な受け止め方とは違った、切実な歌となる。
作者・藤原敦忠の父・時平は、当時右大臣だった24菅原道真が太宰府に配流されたときの左大臣。39歳の若さで亡くなったのは道真の祟りだと言われた。敦忠もまた「我(われ)は命短き族(ぞう)なり。必ず死なんず」と不吉な予言をし、その通り38歳で早世する。