- 現代語訳
- 嵐の吹き下ろす三室の山の紅葉は、ふもとの龍田の川の錦であったよ。
- 所載歌集
- 後拾遺集 秋下 366
歌道を極めようと
三室山も龍田川も万葉集で定着した紅葉の名所。17「ちはやぶる」を想起させる。紅葉を錦と見るのも24「このたびは」以来の伝統的な着想。いささか古風なことばを選び、やはり古風な「AはBなりけり」に拠っている。17業平の大胆さや24道真の新鮮さと比べると何とも落ち着いた趣きがある。その中で、山から川へという高さに注目し、嵐が吹き散らす紅葉が龍田川を錦にすると見立てるところに冴えがある。紅葉が勢いよく散りつづけ、それがきらびやかなまま龍田川に降り注ぐ、動きのある光景が目に浮かぶ。小倉山荘を飾るにふさわしい歌だ。
1049年11月9日、御冷泉天皇が内裏で主催した歌合に提出した一首。作者・能因法師は藤原長能(蜻蛉日記の作者・53藤原道綱母の弟)を師と仰いだ。歌道における師弟関係の始まりだという。その後も二度の陸奥行きをはじめとし、山陰山陽道を旅するなどの行動力を見せた。それまでの歌人にはなかった生き方であった。
60代に入った最晩年、恐らく最後の晴れの場で満を持して用意した歌。「嵐に散りまがう嵐山の紅葉は、ふもとの里にとっての秋であったのだ(散りまがふ嵐の山のもみぢ葉はふもとの里の秋にざりける)」と合わせられ、勝ちとなる。視点は同じだが、紅葉の行く末を「秋」とするのに比べると、「錦」に見立てた腕前は確かなものであったことがはっきりと分かる。
〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉