- 現代語訳
- 誰を知り合いにしようか。あの高砂の松も昔からの友というわけではないのだから。
- 所載歌集
- 古今集 雑上 909三十六歌仙
松に喩えるものは
松は冬でも葉の色を変えない常緑樹であることから、古典和歌では繁栄が長く続くことや長寿の象徴といった、めでたいものとして詠まれることが多い。名所のひとつである播磨国・高砂は現在の兵庫県高砂市。加古川の河口近くにたつ高砂神社には相生の松の古木がある。世阿弥の謡曲「高砂」の舞台となった地だ。
古今集の仮名序には「高砂、住江の松も相生のやうにおぼえ(高砂や住江の松も一緒に生きてきたように思われ)」とある。この記述の典拠がこの歌と、詠み人しらずの「かくしつつ世をや尽くさむ高砂の尾上に立てる松ならなくに(このようにしながらこの世を過ごし終えるのだろうか。高砂の尾上に立っている松ではないのに)」の一首。古今集では「かくしつつ」を先に二首が並ぶ。ともに「高砂の松」をひとり生きながらえた孤独の比喩としている。常緑の松はめでたい一方で、年をとり友のいなくなった老残の象徴でもあった。知り合いがいなくなったわびしさを、高砂の松は松であって友とは呼べないし、さあどうしたものか、とぼやく。
一世代下の35紀貫之にこの歌を意識した「いたづらに世にふるものと高砂の松も我をや友と見るらん(むなしく世を過ごす者だと、高砂の松も私を友と見ているのだろうか)」がある。晩年、官位に恵まれないことを26藤原忠平に訴えたもの。こんなふうに歌ことばは詠み継がれていく。
〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉